なぜ、江田島に無数の砲台跡があるのか?広島湾要塞の歴史

江田島市内(能美島・江田島)をはじめ、広島湾に複数みられる明治時代の砲台跡。その始まりから意外な結末までを奥本 氏が解説。

写真は包ヶ浦火薬庫(厳島)

広島湾要塞の歴史

広島湾要塞の計画は、明治初年度から始まったもので、敵艦隊が本土に侵攻した際に、天然の良港である広島湾に商船を避難させ守ることが目的でした。そのために、出入口となる4つの瀬戸を砲台と機雷で封鎖するというものです。

明治9年フランス軍参謀ミュニュー中佐が「日本国南部海岸防御方案」を提出、これにより要塞築城が決定しました。
明治10年に西南戦争が勃発し一旦棚上げとなりましたが、翌年7月には海岸防御取り調べ委員会が発足し、重要な海峡の調査が始まりました。

日清戦争の勃発。広島湾要塞の建設から完成まで

明治15年7月、朝鮮動乱が発生し要塞築城は急務となりました。
しかし、計画は二転三転し一向に進まず、装備砲は何にするか、砲数、砲台の場所など議論は続きました。
そんな中、明治19年に呉に鎮守府と海軍工廠を置く事が決定、22年に開庁しました。これにより23年に名称が広島湾(呉湾)要塞となり、26年には呉広要塞となりました。
明治27年、日本は初めての対外戦争である日清戦争に突入しました。

明治29年3月、日清戦争の経験により計画を修正し、防御計画を確立させ、建築費並びに年度割り額が決定し、いよいよ建設準備が開始されました。

明治31年度中に岸根鼻砲台、鷹ノ巣低砲台、室浜砲台が起工され、翌年には三高山堡塁、大君低砲台、早瀬第一、第二堡塁が起工されました。
翌年には、再び装備砲の改正が行われ、9cm加農砲は9cm速射砲となりました。3月には室浜砲台が完成しました。

明治33年度中に高烏砲台と休石砲台が起工され、先に起工していた鶴原山堡塁、鷹ノ巣高砲台、鷹ノ巣低砲台、大那沙美砲台、大君低砲台、早瀬第第二堡塁、岸根鼻砲台が同年度中に完成し、残るは大空山堡塁だけとなりました。
4月11日には、要塞司令部が比治山の南裾に設置されました。
明治34年には三高山堡塁、早瀬第一堡塁、休石砲台が完成しましたが、予算の関係でN点堡塁、同南方防御線、大君高砲台、P点堡塁、灰ヶ峰防御線、呉東方防御線が建設中止となりました。
大空山堡塁は、装備砲数を6門から4門に減らし起工されました。
明治36年、名称あ広島湾要塞に変更となりました。
これは、呉要塞だと呉軍港を守るものと誤解されることを防ぐためです。12月、大空山堡塁が完成し、広島湾要塞が完成しました。

広島湾要塞の各砲台・堡塁

ここからは、広島湾に設置された各砲台・堡塁を解説します。

室浜砲台
本土と厳島(宮島)の間が、もっとも狭く浅い大野瀬戸です。ここは通行できる船舶も限られるため、商船を1隻沈めておけば通行不能となるため、大野瀬戸の最狭部分の、厳島の標高10mに9cm速射砲4門を装備する室浜砲台のみとされました。明治31年10月11日起工、明治33年3月31日完成。

大那沙美砲台
広島湾に安全に大型船あ出入りできる唯一の那沙美瀬戸。
ここの正面に位置する大那沙美島の南面標高68mに、24cm加農砲4門を装備する大那沙美砲台が作られました。
明治30年3月20日起工、明治33年3月31日完成。

鶴原山堡塁
那沙美瀬戸の側面に位置した東能美島鶴原山頂上、標高102mに24cm加農砲6門、9cm速射砲2門を装備する鶴原山堡塁が作られました。
明治30年5月20日起工、明治33年3月31日完成。

岸根鼻砲台
那沙美瀬戸と宮島瀬戸を通過する敵艦をよう撃するため東能美島の岸根鼻の標高27mに、27cm加農砲4門、9cm速射砲4門を装備する岸根鼻砲台が作られました。しかし、南側の山に近い1番砲は射界が制限され、左が10度狭くなっています。
明治31年6月1日起工、明治33年9月20日完成。
なお、鶴原山と岸根鼻の間にある豪頭鼻には、シ式90cm探照灯を装備する探照灯台が作られました。

三高山堡塁
那沙美瀬戸の側面に位置した三高山の標高385mに、28cm榴弾砲6門装備の北砲台と、9cm速射砲と9cm臼砲各4門を装備する南砲台からなる三高山堡塁が作られました。
明治32年3月9日起工、明治34年3月7日完成。

鷹ノ巣高砲台
三高山堡塁、鶴原山堡塁と協力し、那沙美瀬戸前方海域で敵艦を掃討するために、厳島(宮島)の鷹ノ巣山標高143mに、28cm榴弾砲6門を装備する鷹ノ巣高砲台が作られました。
明治31年7月21日起工、明治33年3月31日完成。

鷹ノ巣低砲台
宮島瀬戸を通過する敵艦をよう撃するため、鷹ノ巣の瀬標高15mに、27cm加農砲4門、9cm速射砲4門を装備する鷹ノ巣低砲台が作られました。
明治31年6月1日起工、明治33年9月20日完成。

大君低砲台
早瀬瀬戸を通過する敵艦をよう撃するため、西能美島常ヶ石崎の標高4mに12cm加農砲4門を装備する、大君低砲台が作られました。
明治32年5月16日起工、明治33年6月30日完成。
なお、常ヶ石崎の先端付近には、マンゼン式90cm探照灯を装備する探照灯台が作られました。

早瀬第一堡塁
早瀬瀬戸前方で敵艦を掃討すると共に、音戸村先奥及び波多見に停泊することを妨害する目的で、倉橋島古観音山の標高303mに28cm榴弾砲6門を装備する、早瀬第一堡塁が作られました。
明治32年10月7月起工、明治34年3月31日完成。

早瀬第二堡塁
倉橋島釣士田及び音戸村先奥方向から来る敵兵を防止し、音戸村藤の脇付近の海面を射撃する目的で、倉橋島古観音山の標高292mに9cm速射砲6門、9cm臼砲4門を装備する早瀬第二堡塁が作られました。
明治32年10月12日起工、明治33年8月25日完成。

休石砲台
音戸瀬戸前湾を射撃する目的で、高烏中腹の標高20mに9cm速射砲2門を装備する、休石砲台が作られました。
明治33年9月15日起工、明治34年3月31日完成。

高烏堡塁
音戸瀬戸から敵艦が侵攻することを防止する目的で、高烏山の標高213mに28cm榴弾砲6門、9cm速射砲2門を装備する高烏堡塁が作られました。
明治33年12月25日起工、明治35年6月30日完成。

大空山堡塁
阿賀村前方海面を射撃し敵艦の接近を防止し、敵兵の上陸、侵攻を防ぐ目的で28cm榴弾砲4門、速射砲4門(臨時)を装備する大空山堡塁が作られました。
明治35年4月11日起工、明治36年12月28日完成。

包ヶ浦火薬庫
鷹ノ巣高・低砲台、室浜砲台の後方支援用の火薬庫。

比治山演習砲台
訓練用の砲台で28cm榴弾砲、24cm加農砲があったという。

海軍水雷営所
各海峡内側に機械水雷を設置し、砲撃を掻い潜った敵艦を撃沈する。
厳島(宮島)鷹ノ巣の瀬北方岬、三高村美農、音戸最狭部に作られました。

広島湾要塞の意外な結末。

広島湾要塞が完成した翌年、日露戦争が勃発したが大方の予想が外れ、日本は勝ってしまった。戦争中、要塞は警戒体制を取っていたが、実際に火を吹くことはなかった。
第一次大戦が終わると、日本を脅かす海軍力を持つ国は隣国になくなり、要塞は整理、不要なものは廃止されることになりました。
大正8年、広島湾要塞は全廃が決定し、大正8年に早瀬第一堡塁、高烏堡塁、大空山堡塁、大正10年に三高山堡塁、早瀬第二堡塁、大正15年に残りの砲台と、要塞司令部が廃止さ、広島湾要塞は姿を消しました。跡地は海軍へ移管されました。

(記事提供:奥本剛 氏)

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